平成磐田文庫「カボチャ食堂」が、独自に磐田の誇れる風景を歴史的価値を踏まえて吟味し、ここに代表的な八つの景色を推薦します。
名付けて「磐田歴史八景」
磐田の歴史的誇りを胸に訪ねてみて下さい。
東海道五十三次28番目の見付宿を東の高台から見下ろす。 1 km近い通りはかつて東海道一の宿場の長さだった。 一対のナギの木に見守られる社の裏には一里塚がある。 火之迦具土神は防災の神。手筒花火も舞う祭礼は7月末。
天正16年(1588)家康の家臣伊奈忠次の命を受け天竜川の小さな支流だったものを用水として改修整備。 最初の取リ入れ口 が寺谷地区であった為命名。豊岡地区上野部から浜部までの 24kmの長大な用水路。 いくつも架かる橋には戦国の名残が感じ られる。
北遠の山々を背に遠州灘·天竜川·磐田原を見下ろす。 かつては密教の信仰の地で、山中に多くの寺院を配し石仏群も多く点在している。 岩室と言われ、この地の石は国分寺の敷石にも使われている。
天竜川は暴れ天竜とも呼ばれ池田の渡しは足止めでもにぎわ った。 平安時代末期、 池田の庄司の娘で教養豊かで親孝行「女性 の手本」と言われた熊野御前を遠江国司だった平宗盛が見初 め都に。母の看病で帰里し、そのままこの地に留まる。行興寺 境内に樹齢850年の熊野の愛した藤の花が植えられている。
江戸屋と号して材木商,両替商回船問屋を営なんだ豪商の邸宅の遺構津倉家。明治22年建築。上級木材を惜しげもな く使い個人宅だがガス灯が完備。昭和10年の増築部は当時 流行の洋館付住宅を思わせる。
弥生時代の元島遺跡も残る。鎌倉,室町時代から「中世の物資、文化の集積配送場」自然のままの川の流れを人力で改修する港の整備事業は江戸時代の中期(1850年頃)から
大之浦の名残りで総面積11ha(11万m)水のいらない上流域と水が欲しい下流域との長年の争いを松岡萬が仲裁した事で明治四年、池主靈社を松岡神社として、存命中に神様として祭られる。 現在は遊水池化して自然、景観、健康増進の憩いの場に
苦難をなぎ倒す(開運)海が凪ぐ(厄除け)葉脈が無く横に切れ にくい(縁結び)葉の裏も美しい(清らか)と言われるナギの木と樹齡数百年の大楠と日限地蔵が恋愛バワーをもたらすと評判。表門は中泉代官所の門を移築。